手紙 -オンライン・レクチャー・シリーズ『罵倒の作法』中間報告にかえて-

木村悠介

まず改めて、今回の『罵倒の作法』というプロジェクトを思いついた経緯を、少し詳しく書いてみようと思います。最初のきっかけは日本でヘイトスピーチが問題になり始めて、ネットを通じてそれを知ったことです。その頃、私はベルリンに移住して2年目ぐらいで、2013年ごろのことだったと思います。2011年の震災の後、反原発デモなどの盛り上がりを見ながら、震災の1年後にベルリンに移住した私にとって、それはかなりショックなことでした。いったいこの短い間に日本で何が起きているのか、と大きな戸惑いを覚えたことを記憶しています。とはいえ一方で、震災後の日本の状況とこのヘイトスピーチの問題は密接に関係しているようにだんだんと思えてくるようになりました。
震災から少し時間をおいて、原発や放射能汚染に関する捉え方、感性の違いから、人々の断絶が大きな問題になってきていました。SNS上では、時には互いを揶揄したり、罵ったりするような行為が見られるようになっていました。震災直後、ネット上で見られた相互に情報をやり取りしながら、連帯してこの危機的状況を乗り越えようとする機運は、いつの間にか分裂、分断、断絶へと姿を変えていたのです。
もちろん、ネット上ではずっと以前から近隣のアジア諸国や在日外国人などへの差別的な言動や思想はありました。しかしそれはある限定的な空間で発せられており、少なくとも日本人である僕の普段の生活の中で、そうしたものを意識することはほとんどなかったと思います。しかし、ヘイトスピーチでは公の場で、しかも当事者が多く住む場所で、ネット上のそうした悪意がぶちまけられるのです。こうした行動がなぜ可能になってしまったのか、という部分で、震災以降の人々の分断の状況はそれを準備したように私には思えます。
その後、日本でのヘイトスピーチについてネットを通じて情報収集するうちに、現場ではヘイトスピーチに対抗するためのカウンター活動を行う人々が出てきました。それはヘイトスピーチという到底許容することができないものに対する当然の反応だったと思うし、現場に行くことができない自分にとって心強く思えることでした。またヘイトスピーチを巡る様々な議論も始まっていきました。ヘイトスピーチを法的にどう捉えて、規制することができるのかという問題や、表現の自由の問題が議論され、またヘイトスピーチを行っているのがいったいどういう人々なのかということが徐々に明らかにされつつ、それぞれの議論の中でまた新たな問題が浮かび上がってくるようになってきました。一方で現場に行くことができない自分にとって、そして表現に携わる者として、この問題をどう捉えるべきか、何かしらの応答をする必要があるんじゃないか、という思いが強くなっていきました。
この問題に具体的に作品で応答するとした時に何ができるかを考えて、最初に浮かんだのはペーター・ハントケの『観客罵倒』を上演するということでした。現代演劇史的に非常に重要な作品として知識では知っていましたが、上演を観たことも戯曲を読んだこともありませんでした。けれどもヘイトスピーチという問題が起きている今、60年代に上演されたこの作品を別の角度から上演することができるんじゃないか、という思惑がありました。そこでひとまずネットなどで『観客罵倒』について調べたり、一時帰国した際に図書館で邦訳を入手したり、という作業に入りました。しかし、実際に『観客罵倒』の戯曲を読んでみると、「なにか違う」という印象を抱いてしまいました。『観客罵倒』はあくまで劇場という場所で、そこにやってくる社会の中のある層の人々に向けて書かれており、現在進行しているヘイトスピーチを巡る問題とはズレているように思えたのです。『観客罵倒』をもし上演するなら、このズレをなんとか解消しないといけないと思い、ひとまずこのアイデアは保留することにしました。けれども、他にどういう作品化への方法があるかがなかなか思いつかず、そこから次に進むことができずにいました。そうこうしているうちに、私は日本に帰国し、日本での活動を再開しました。日本に帰る時に、日本での創作環境でなら可能になる作品のアイデアがいくつかあったのですが、その中にこのヘイトスピーチを巡る問題に応答するというのも入っていました。
そして日本での生活も落ち着いてきた時、ふっと頭に浮かんだのが「罵倒の作法」という言葉でした。この間に考えていた様々なことを踏まえた上で、その先の方向性を垣間見させてくれるような言葉だと感じました。ヘイトスピーチというものに抵抗をしつつ、これまでとは異なる尺度と視点から問題を捉え直すことができると思いました。
 
「罵倒の作法」という言葉を使うことで何が可能になるのか。それを探っていくこと自体が、このプロジェクト全体の目的ではありますが、現在のスタート地点において私が思うところをできるだけ言葉にしてみたいと思います。
まずはヘイトスピーチを巡る問題を私は表現というものの問題として扱いたいということがあります。表現というものは常に誰かを、何かを傷つける可能性があるということ。表現というものが持つそもそもの暴力性について考えること抜きに、ヘイトスピーチについて考えることはできないんじゃないか。表現を発する側がそのことをどのぐらい意識できているかということと同時に、受け手側も傷つけられることをどのぐらい了解しているのか、もしくはその許容の限界はどこにあるのか、それはどのように設定され、また再調整が行われるのか。特に芸術表現に携わる者にとって、このことは非常にアクチュアルでプラクティカルな問題ですし、これはそもそも他者と出会うということの中で誰しもが常に直面している問題でもあるのです。もちろん傷つけることや傷つけられることが表現や他者と出会うことの目的ではないのでしょうが、それは常に避け難いものとしてそこにあります。表現の自由を守るというのは、こうした表現の暴力性についても了解した上で為されねばならないことなのです。ヘイトスピーチを否定しつつ表現の自由を確保するには、「人を傷つける表現をするな」という単純な言葉では、そもそもの表現の暴力性が無視されていて、あらゆる表現を否定することになりかねません。「罵倒の作法」という言葉は、そうした表現の暴力性を踏まえた上で、その表現の在り方や振る舞いを問題にすることができます。そして表現を発する側と受け手側との間で行われるポリティクスに関して、実践的なアプローチを探っていくことにもなるでしょう。
次に、暴力そのものについてもここで考える必要があるでしょう。このことは野蛮について考えることとも通じています。アドルノとホルクハイマーが『啓蒙の弁証法』の序文で掲げた「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか」という命題に、今新たに取り組む必要があるということを私は現在の様々な社会的状況の中で強く感じています。そして同時にフーコーが示した生政治というものの中で、個々の社会生活から排除されてきたはずである暴力の現在の様相も分析していく必要があるでしょう。その上で私は、暴力というものを無条件に全て否定するのではなく、ある種の暴力が発動する可能性を認めた上で、そこに適用されるべき「作法」を探っていきたいと思っています。
先日、ハーヴェイ・ミルクについてのドキュメンタリーを観ました。ミルクは1977年にアメリカ合衆国で初めて選挙で選ばれたゲイを公表していた公職者でサンフランシスコの市会議員になりました。しかし、議員就任から1年も経たない1978年11月27日に同僚議員のダン・ホワイトにより、ジョージ・マスコーニ市長とともに市庁舎内で射殺されました。この事件の裁判で、ホワイトはわずか7年の禁固刑を宣告され、この評決に怒った人々が、サンフランシスコで広範囲にわたる暴動を起こしました。このことを見た時に、このような暴動=暴力の発動を否定することができるのか、ということを考えました。この例だけではなく、歴史的に見ても様々な社会的マイノリティーによる暴動というものはありました。それらを「暴力は良くない」という一言で否定することはできないと思うのです。社会的秩序という名の下で抑圧され、いわば常に暴力に晒されている人々が、その秩序を一時的にであれ破壊することを私は否定できません。しかし、そうした時に問題になるのは、ではテロリズムについてはどう考えるのか、ということです。ここでも何らかの新たな尺度が必要とされます。そしてそれを私は「作法」という言葉に求めたいのです。社会的マイノリティに限らず、何かしら抑圧された弱き者たちによる暴力の発動の可能性を認めつつ、その暴力を剥き出しの状態ではなくそれに何らかの「作法」をまとわせることで、最悪の事態を回避することはできないでしょうか。
今回のオンライン・レクチャー・シリーズの中で、鴻英良さんは21世紀を「収容所の愉楽の時代」ではないかと述べられました。私なりの理解では、アウシュヴィッツなどに代表されるある限定された空間としての収容所が世界全体に広がり、制度化されて、人々の中に身体化されて、しかもそのことを抵抗することなく受け入れて、その状態の中で喜びを見出しさえする時代、ということになります。そのような現代社会において、秩序を乱す行為は排除されており、また実行したとしても、秩序を乱すような行為で人々の共感を得ることは難しいのかもしれません。だからこそ、弱き者たちの最後の抵抗の手段として、何らかの「作法」に乗っ取った暴力、もしくは罵倒の声の可能性を残しておく必要があると考えるのです。これは一歩間違えば非常に危険な考えかもしれません。けれども現実のヘイトスピーチに対するカウンター活動を例に取ってみても、そこには穏健な社会道徳的な態度では済まされない切迫した状況があり、ある種の暴力や罵倒というものを使わずに抵抗する術は今のところないと言っていいのではないでしょうか。とはいえ私の知るところでは、現在のカウンター活動が理想的な「罵倒の作法」を獲得しているとは言えないとも思っています。これはカウンター活動に対して否定的に思っているということではなくて、その活動が、今はまだ傍観している、もしくは無視している他者にも受け入れられて、より多くの人々の間に広がり、社会全体のコンセンサスにしていくには、その活動の在り方や振る舞いを修練させていく必要があるだろうということです。こういう考えは現実に現場で活動する方々にはいかにも進歩主義的、啓蒙主義的なもので受け入れ難いと思われるかもしれません。その点は今後、このプロジェクトの中で、ヘイトスピーチに対するカウンター活動を行う当事者の方々にもお話を伺いながら再考したいところではあります。
次に、「作法」という言葉についても検討してみたいと思います。「作法」というのは一つの言語動作に関する様式のことですが、加えてそれは必ず他者を意識したものです。ここでいう他者とは、誰のことでしょうか。まずはその言語動作が向けられている対象となる人物でしょう。けれども私はそれだけではないと思います。その両者を見つめる第三者、そして言語動作を発するその人自身が自分を見つめる目にも、この「作法」は意識を向けているのではないでしょうか? そして、その「作法」によって得られること、それはこの三者間の円滑な関係性の構築というのではどうも説明がつかないように思います。例えば、お茶の作法を考えてみれば、円滑な関係性の構築というにはあまりにも手数が多過ぎるように思えます。それよりも、この「作法」が希求しているのは、「美」ではないでしょうか。三者がともにその言語動作を美しいと感じられるかどうか、それも外観的な美しさだけではなく、フーコーが「生存の美学」という言葉で示したような、内的な美を備えているかどうか、それが「作法」と「無作法」を分けるのではないかと私は考えます。
そして「作法」は様式であるがゆえに、誰かが獲得したものを他の者が学び、習得することができるということは重要な点です。と同時に、その様式も一様ではありませんし、刻一刻と変化していくものかもしれません。芸術表現がそうであるように、新たな「美」が打ち立てられれば、それに伴った新たな様式、「作法」が求められます。けれどもそれで古い「美」が完全に淘汰されて、その「作法」も消えてなくなるわけではありません。それらは共に同時代に共存しうるのです。そのようにして多様な「作法」があることで、立場や状況、また三者を構成する人々に応じた「作法」の選択が可能になるのです。
さてもう一度、問題を「罵倒の作法」という一つの言葉に戻して考えてみたいと思います。これまでも多くのご指摘を受けているように、この「罵倒の作法」という言葉は矛盾を抱えています。つまり「罵倒」とはそもそも「無作法」なものではないか、ということです。しかし同時に、その矛盾こそがこの言葉の魅力であり、可能性であるというのも、既にご指摘いただいている通りです。加えて、この「作法」を「美」との関係から捉えることで、幾分かは意味を取りやすくなったのではないかと思います。けれども依然として、この「罵倒の作法」というものを実際に成立させるのは非常な困難を伴うことでしょう。今回のオンライン・レクチャー・シリーズでご指摘を受けたことでいえば、杉田敦さんが述べられた、「罵倒」という生の感情を伴う行為を「作法」というものに嵌め込んだ時に、はたして元の生の感情を維持することはできるのか、というのは大きな問題ですし、今回はそれをさらにパフォーマンスとして作品制作を試みるわけですから、このテーマを扱う表現形態としては非常に不利だと言わざるをえないでしょう。そういう意味では、今回のプロジェクトを通した中で、パフォーマンスや演劇といった表現形態以外の、例えば映像による作品制作の試みなども取り入れてみる価値があるかと思います。重ねて杉田さんのご指摘をなぞることになりますが、「罵倒」という本来的に野蛮なものを「作法」という、ともすれば啓蒙主義的なものに押し込んでしまうことで、「罵倒」が持っていたある種の力が損なわれるのではないか、という言い方もできるでしょう。ただこの言い方はアドルノとホルクスハイマーが指摘した「野蛮」と「啓蒙」の関係とはある意味で逆の方向性を持っているものですので、その比較をしてみることから何かこの問題を解消する考え方が生み出されるかもしれません。また作品制作の実際からすれば、ある種の矛盾を抱えた状態を一つの緊張関係として提示することができれば、作品として成立させることはできるのではないかと考えています。
 
最後に、この『罵倒の作法』プロジェクトで今後どのような展開を想定しているのか、現在のところの構想を述べたいと思います。このプロジェクトは5年を目処として様々なリサーチや大小規模の作品発表を行いながら、最終的なパフォーマンス作品の発表を目指しています。そのスタートアップ・リサーチとして、まずは様々な方にお話を伺いながら「罵倒の作法」という言葉から何を広げていくことができるのか、どういうテーマやモチーフに繋げていくことができるのかを探っていきたいと思ってこうした形式をとることにしました。既に3回のセッションを終えて、様々なトピックが出てきていますが、想像以上に多岐にわたるお話を伺えたので、それらを無理に一つにまとめるのではなく、今後のプロジェクトの可能性として個別に発展させながら進めていくことになるでしょう。今回のリサーチの最後に、改めてもう一つ論文を書くことにしていたのですが、論文という形よりも今回のように率直に現状の自分の考えをまとめる文章にした方が良さそうな気がしています。このスタートアップ・リサーチ終了後も多様な方々と問題を共有して、対話やインタヴューを行うリサーチは継続させたいと思っていて、特に今回はまだ聞くことができなかったヘイトスピーチに対するカウンター活動を行う方々とのセッションはぜひ実現したいです。また少しずつ他のアーティストとのワークショップ形式のセッションも行っていき、実際に創作に繋げていく方法を模索していくことにするつもりです。
最終のパフォーマンスの制作に入る前に、それとは別にやっておきたい具体的な作品の構想がいくつかあるのですが、まず来年の2022年には詩人の金時鐘さんの詩をテキストにした演劇作品を制作する予定です。なぜ『罵倒の作法』プロジェクトの中で金時鐘さんを取り上げるのか、なかなかそこに説得力のある説明の仕方をまだ見つけられていませんが、ひとつは単純にこのプロジェクトについて考える中で思い浮かんだ方だったからです。順を追って説明しますと、まずは何かテキストをもとにした演劇作品をと考えた時に、『観客罵倒』はまだ上演の方法が見つかっていないので別のアイデアを探していたのですが、『観客罵倒』以外に罵倒を直接的に主題にした戯曲というのは見当たりませんでしたので、何か間接的に「罵倒の作法」というテーマに繋がるテキストを探していました。そうした中で、次に思いついたのはサドの『悪徳の栄え』をテキストにすることでした。サドのテキストの中にいわゆる罵倒はほとんど登場しませんが、特に『悪徳の栄え』の中で放蕩者たちが開陳する悪徳の論理、徹底的な既存の道徳観念の破壊は、ある種の暴力性を孕んだ言葉であり、その言語による暴力性という点で罵倒と繋がるのではないかと思いました。そこで今回のスタートアップ・リサーチに先立って、オンライン・リーディングを実施したり、悪徳の論理の開陳に当たる部分だけを抜き出し並べ替えたりしながら、テキストの制作に入りました。ちょうどその頃に今回のスタートアップ・リサーチの実施が決まり、一旦『悪徳の栄え』の作業を中断して、論文の執筆に集中することにしました。そして論文を書き上げた頃に、金時鐘さんのことがパッと頭に浮かびました。きっかけは忘れてしまいましたが、その頃に読んでいたはずの舞台芸術研究センターの機関誌である『舞台芸術』vol.24の「言葉と音楽-〈日本語〉を超えて」という特集に刺激を受けたのかもしれません。金時鐘さんのことは、学生時代に港大尋さんが率いるソシエテ・コントル・レタが金時鐘さん本人による詩の朗読とコラボレーションしているライブのCDを聞いて知ってはいました。当時から、その言葉と声、そして語り口に魅力を感じていましたが、実際に詩集を読むことまではしていませんでした。けれども今回、在日として日本語で詩を書き続けてきたことを「自分の持っている日本語への復讐」と呼ぶ金時鐘さんの詩作姿勢を知り、そしてその様々な苦渋に満ちた思いが込められた詩の言葉を読むうちに、今回の『罵倒の作法』プロジェクトで取り上げるべき方だと思うようになりました。金時鐘さんの詩にも直接的な罵倒の言葉はほとんど現れてきませんが、それはいわば罵倒を押し殺して出てきた言葉のように思えます。今思えば、まだその具体的な姿を掴めていない「罵倒の作法」というものを獲得したその表現は、私たちの知る「罵倒」の姿をしていないのかもしれません。
金時鐘さんの詩をテキストにした演劇作品の他に、前述したサドの『悪徳の栄え』をテキストにした演劇作品、また劇作家の方にオリジナル戯曲を依頼して上演する演劇作品と、今のところ、やはり発話行為を扱うということもあって演劇作品のアイデアが多くなっています。最終的にはパフォーマンス作品にしたいと思うのは、罵倒という行為のパフォーマティヴィティに注目したいということや、現実のヘイトスピーチを巡る問題への応答をできるだけ直接的に形にしたいという気持ちがあるからですが、今後のプロジェクトの進行次第では、より演劇的なものになる可能性もあります。
 
5年という比較的長いスパンで取り組むプロジェクトなので、まだ先のことは分からないことの方が多いですが、この1年でだいぶ前に進んだという手応えだけは感じています。オンライン・レクチャー・シリーズもあと2回残っていますが、より充実したものにして、どこか自分では予想もしていなかったような場所に辿り着くことができれば嬉しいと思っています。私は作品を作るときも、自分がイメージしたものを形にするというよりも、作品を作りながら何か予想もしなかったものに出会うことや、新しい発想や考え方を見つけることを望んでいます。今回のプロジェクトもそのような機会になるよう、多くの方にお力をお借りしたいと思っています。他者との出会いの中で、それは時に自らが傷つくことになるかもしれませんが、自分自身を変化させていくこと。そのことが、私が創作活動を行う目的なのだと思っています。
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